3. 子供のおもちゃから観賞用人形へ

おもちゃとしてのこけしの終焉

こけしが子供の手遊びおもちゃであった時代はこけしが発生してから100年ほどの大正末期頃までのことです。大正期になると都市でつくられたブリキ製のおもちゃが東北地方の町や温泉でも売られるようになり、そのほかの新しいおもちゃも次々と現れました。その中でこけしは単調で古臭いおもちゃという立場になり、子供からもその母親からも見捨てられ湯治場からも町の店からも徐々に姿を消すことになりました。
また木地師がつくる日用雑器の需要にも変化が起き転業する木地師が増え、こけしの作り手は減少の一途をたどりました。ここにこどものおもちゃとしてのこけしの使命が終わろうとしていました。

鑑賞用人形への背景

こどものおもちゃであったこの人形が現在の観賞用人形としての位置づけに移っていったのは大正末期から昭和初期と言われています。その頃大人の間で郷土玩具の収集が流行しだし、その熱が高じてくるとそれまでほとんどかえりみられなかったこけしにも目が向けられるようになりました。こけしのもつ素朴な描彩と造形、そこに簡素な美しさと郷愁を感じ取られるようになりました。

鑑賞用人形としての認知

これらの発見には童画家の武井武男、郷土史家の三原良吉、天江富弥*らが関わっておりますが、特に天江富弥が著した「こけし這子の話」はその後のこけしを大人の鑑賞用人形として位置付けた金字塔ともいえる一冊でした。その後昭和14,15年ころになるとこけしは全国的に認識され愛好者の数も飛躍的に増えていきました。

*天江富弥
本名は「天江富蔵」。宮城県出身。明治大学商科卒業後の大正10年、仙台で“おてんとさん社”を結成して、日本初の児童文学専門誌「おてんとさん」を創刊するなど、児童文化活動の指導者として活躍。野口雨情や山村暮鳥、竹久夢二、草野心平、宮沢賢治、土井晩翠、永六輔、三大閨秀歌人といわれた柳原白蓮・九条武子・原阿佐緒などと幅広い交流関係をもつ。
昭和2年1月には仙台市の文化横丁に郷玩店「小芥子洞」を開業し、昭和3年にこけしを体系的に扱った日本初の文献「こけし這子の話」を上梓して、東北限定の玩具・こけしを、全国的に著名な民芸品に押し上げた。『ウィキペディア(Wikipedia)』