11. 小田原・箱根のこけし(その2)

神奈川・箱根地区のこけしの名声を高めた一因として、昭和25年に行われた全国見本市人形展において、箱根町の片瀬快平さん(故人)の「箱根わらべ人形」が最高賞を受賞したこともあります。それまではこけし生産では新しいこの地区から最高賞が出たことで、白石のこけし業者がこぞって視察にきたそうです。昭和33年には小田原こけし振興会が設立され、こけし産業が奨励されるようになり、新型こけし製造業者は二百を超えるようになりました。昭和30年代後半には国内有数の産地になり、昭和50年代までは盛んに制作されていました。この間意欲的な新型こけしの作者で構成された「まゆみ会」が設立され、コンクールの開催やデザインの研究などを行い、後の創作こけしの基礎となるような高尚な作品が盛んに発表されました。
しかしながら、その後時代とともに世の中のこけし熱が低下し、こけし振興会の解散とも相まって、昭和60年代から平成にかけて作者が廃業したり亡くなったりし、同時に後継者も殆ど育たなかったため、今日ではごく僅かながら生産されているにすぎません。


(箱根ナビ)
 

12. 米沢のこけし

もう一つの新型こけしの主要な産地として山形県米沢市がありました。米沢は戦前から伝統こけしの産地で、挽物製作の下地を備えていました。ここでもこけし製作に着目し、昭和28年に新型こけしを製作する「米沢人形製作会社」が設立されました。発足時は80名の社員が在籍していました。昭和36年には新型こけしのデザインの研究を目的とした、「米沢デザインクラブ」が設立され、その後「深雪会」、「白樺会」と名義を変更して昭和50年代までは活発に活動をしていました。米沢でも最盛期には行政の支援を受け、コンクールが開催されていました。昭和60年以降は小田原・箱根地区同様、作者の高齢化と、後継者不足により、現存作家は数名にまで減少しています。

13. 近代こけしの発展(その1)

戦後生まれた新しいこけしは、当初土産用のこけし人形と言われたものが殆どでした。それらの製作は分業により行われていて、一人の作者がすべての工程を行う事はほとんど無く、創作的な要素はあまりありませんでした。そのような中で民芸研究家の山中登氏の主宰によって、全国の新型こけし作者の組織である「日本農工芸作家協会」が設立されました。この会の目的は戦後登場した新しいこけしを、さらに日本の新たな工芸品としてより質の高いものにすると共に、目標を達成するための関連事業を援助するというのが主な目的になっていました。実際に、当時は新型こけしと言ってもその作品は千差万別で、それ自体の定義付も不明確でした。そこで、昭和28年に全国に散在的に広まっていた各地の新型こけしを集めて見本市「全国風変りこけしコンテスト」が開かれることになりました。これが新型こけしを対象とした初めてのコンクールで、全国から集まった出展作品は一万を超え、また関連する業者の数も全国で二千を超えていました。

14. 近代こけしの発展(その2)

新型こけしの初めてのコンクールが予想外の盛況ぶりであったことを受け、日本農工芸作家協会では新型こけしを室内装飾の美術工芸品としての位置付けを目指すことを目標に昭和29年より「全国こけし人形コンクール」を開催しました。これにより個々の作者が新しいこけし工芸分野の確立という共通の目標に向かって協力、切磋琢磨し、作品の公開、審査による客観的な評価を得ることで、より優れた作品が登場するようになり、おおいに発展していきました。昭和30年代に入ると志を持った作家たちによって、より芸術的な作品が次々と発表され、それまで新型こけしの主流だったお土産用のこけし人形との間に明らかな違いがみられるようになりました。そこでこれらを区別するためより芸術性の高いものを「近代こけし」と呼ぶようになりました。この近代という響きは若干違和感が無かったわけではないようでしたが、当時の作家協会の定義としては「近代とは古代から現代にいたるまで我々日本民族に脈々と受け継がれてきている伝統的技法伝承の懸け橋となるべく、これまで培ってきた木工ろくろ技術の伝統を守り確実に将来に継承するとともに、さらなる創意工夫によって深遠な芸術的価値を持った工芸品として分野確立を望んで命名した」とされています。またこの言葉の奥には、作者の作品制作に対する精神的態度、美術工芸家としてのプライドと作品に対する責任を持つことへの期待が込められていました。